とにかく、渋谷にしても、青梅街道、甲州街道の最初の宿場町、内藤新宿(いまの新宿)にしても明治中ごろ、西暦でいえばちょうど一九年ころには、山手線の開通も大いに貢献して江戸時代の宿場町としての繁栄を取り戻して、近代日本の歴史の中での盛り場一世代をつくる。
そして、日本橋、京橋は江戸の伝統を継ぐ一八八0年代の都心、上野・浅草は同じ一八八0年代の新開地だった。
丸の内は大正デモクラシーの一九二0年代からオフィス街ハとして成長しはじめ、山手線の南北軸沿いに「大正副都心」械が初めて街らしい街としてできるのも、二0年代のことだ高った。
配この、二年ぐらいずつ時間差がついて街が発展してい捕ったことが、その後の東京の経済地理にどんなに大きな影酌響を与えたかという話は、1で詳しく説明した通り東だ。
それぞれの街がおおざっぱに言えば七年周期で代替わりしながら、発展したり衰退したりしていく。
一九七年代に明治維新後初めて代替わりした渋谷・新宿は、いまちょうど二代から二一代に差しかかったところだから、威勢がいいのは当たり前だ。
逆に、大正デモクラシーのころ初代の街が形成された山手線の内側の北半分の盛り場は、代替わりが「閉塞の九0年代」に当たっていたので、代替わりできずに消滅してしまったり、精彩のないこ代目が生まれたりしている。
東京の繁華街を比べると、街としては文句なく日本橋、京橋、銀座といった東のほうが古い。
日本橋、京橋は江戸時代以来の伝統ある盛り場だし、銀座も明治維新直後から文明開化のショーケースとして開発されていた。
だが、乗り換えの利便性を重視した総合駅としては、じつは西側の渋谷、新宿、池袋のほうがはるかに長い歴史がある。
次のベージの二つの図を見比べていただきたい。
明治維新からもう三年もたつていた一八九七年、皇居のまわりにはまだひとつも駅がなかった。
このこと自体も驚きだが、それからさらに一七年がすぎた一九一四年になっても、まだ東京駅、上野駅、御茶ノ水駅のあいだをつなぐ鉄道は存在していなかった。
どうしてこういう「ねじれ」現象が発生したのだろうか?その答えは、まず一に、東京駅が建てられた場所そのものが皇居を仰ぎ見るため以外には、非常に不便な場所だったことだ。
さらに、明治初期の官僚たちは、上野や浅草の新興資本家階級から雇い人階級までの種々雑多な人々が、皇居のお膝元東京駅になだれ込んでくることにおそれをなしたということも大きいだろう。
しかし、人は便利なところに住みたがるし、使利なところで遊びたがる動物だ。
だから、東京都内の人口は、明治初期からどんどん西に移動している。
そして、この人口の西への移動が都心一等地そのものを西へ、西へと引っ張っている。
しかも、住宅地が都心の真ん中でも高度利用されていないため、東京という都市はどんどん横にだだっ広く広がっていく。
都ゆを南西日程鯵暢け三一つの要因しかし、その西への移動の中でも、徐々に南西方向への移動のほうが北西方向への移動より力強い動きだということが分かってきた。
いったいなぜ、都心ビジネス街中心部四は南西に移動し続けるのだろうか?ぼくの見る限りでは、理由は以下の三つに絞ることができる。
①東京都の人口重心が西に移動し続けていること。
②ファッショナブルな職業やライフスタイルの人たちが、都心南西部に集中していること。
③家族形態の変化で、時間コスト意識の高い人たちが増えていること。
一に、東京都の人口重心だが、一四五ページの図をもう一度見ていただきたい。
ちょっと補足すると、二次大戦勃発直後の一九四年には北青山の権田原の交差点あたさんぐうばーりにあった人口重心が、一九五四年には代々木参宮橋へと、ほほ真西へ二キロ以上も動いていた。
いちばん最近の一九九五年の国勢調査資料では、杉並区の真ん中あたり、えいふ〈ちょう駅で一宮守えば永福町と西永福の中間ぐらいのところにある。
つまり、東京都の平均的な通勤者にとって、新宿・渋谷に通勤するなら二分程度で行けるが、東京駅近辺まで通勤するということになると、五分から一時聞かかってしまう。
毎日片道で三分の通勤時間の差は大きい。
無駄な時間をできる限り節約しようとすれば、オフィスは東京駅周辺にあるより、新宿・渋谷周辺にあったほうが有利だ。
二番目に、ファッショナプルな人たちが集まる場所の問題だ。
ここから、単に西ではなく南西にビジネス街中心部が引っ張られる理由が出てくる。
居住ベースで調べても、就業地ベースで調べても、か。
か。
商売人口は異様なくらい都心南西部に集中している。
要するに、ふだんから趣味やセンスが新しい人たちがいっぱいいるところほど、同じようにファッショナプルな仕事をしようという人にとっては、同業者が何をしているか、顧客層のあいだで何がはやりつつあるのか、何が廃れつつあるのかをリアルタイムでっかみやすい。
だから、一度そういった集積地ができあがると、そこに同業者、顧客層、仕入れ業者などが続々と集まってくるということだろこの流行に敏感なライフスタイルの就業者、居住者の集積地ということになると、新宿が生息北限で、それより北では点在はしているが、あまり大きな集積地を作っていない。
それがなぜかということになると、同じ首都圏西側でも、北と南では主要私鉄グループの経営姿勢が違っていたことが大きい。
しかし、下北沢というのは、小田急小田原線という放射状路線と京玉井の頭線という環状路線うまり別々の電鉄会社のあいだで線路が交差したところにできた駅だ。
これはもう、世界中の鉄道発達史にも似たようなケスはほとんどないだろう。
だいたい、環状路線というのは、放射状路線に乗客をフィードするために作られる。
だから、東横線という放射状路線で運べる乗客の数を増やすために、大井町線を作ってフィードする自由が正のようなケースは、同じ東急電鉄の路線同士なので十分意図が分かる。
しかし、下北沢という駅は、小田急の放射状路線に、京ハ王の環状路線をぶつけたわけだから、話がよく分からな比い。
京王の経営陣は、わざわざ人助けのために下北沢での高乗換駅建設に乗り出したのだろうか?ぼくがずいぶん長配いこと疑問に思っていたこの点は、一冊の本がみごとに解日決してくれた。
Fの『環状線でワーカーる東京の鉄道網』圏という本だ。
綜この本によると、戦後は長いこと京王帝都として昔からひとつの会社に属していたように考えられている京王線と帝都線(いまの井の頭線)は、じつは系統が違っていて、帝都線を運営していた帝都電鉄は、むしろ小田急の系列会社だったのだそうだ。
そして、二次大戦中に戦時体制として東京中の私鉄がおおざっぱに言って、南西の東急、北西の西武、北東の東武、南東の京成の四系統に整理統合されたとき、小田急や京王とともに、帝都電鉄も東急に統合された。
混乱は、戦後の財閥解体などの一連の動きの中で、東京の私鉄各社もまた四大系統から分かれたときに生じた。
小田急は箱根登山鉄道や江ノ島電鉄を傘下に入れることを条件に、帝都電鉄に対する支配権を放棄した。
その結果、漁夫の利を得るかたちで京王電鉄が帝都電鉄井の頭線を吸収したわけだ(「環状線でワーカーる東京の鉄道網』F著、二年、たちばな出版、一五二1一五七ページ)。
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